大河ドラマの地を訪ねて(3)普門寺

あんせるめ

2020年08月19日 11:00

:地元の花倉城!がNHKの大河ドラマ風林火山に「花倉の乱」で登場した事がきっかけで、時ならぬ今川史跡の見直し等、いつもの「突発性..にわか散策症候群」?が発症してしまった!
以来「花倉の乱」がらみ、せっせと散策を続けて、あらかたのポイントは散策出来たが、、まだ訪ねていない場所がある・・ そう! 花倉の乱で家督騒動に敗れた当の「玄広恵探」(良真)の
墓碑のある場所・・ 彼はいずこで眠っておられるのか?

第3巻は、花倉の乱で、梅岳承芳(今川義元)方との戦いに敗れた玄広恵探(今川良真)の敗走と、敗走途中に.. 逃げ込んだ:高山寺と告自刃した:普門庵と菩提寺:普門寺の散策紀です。

梅岳承芳勢に追われた玄広恵探(良真)は、花倉城外へ脱出して敗走中に高山寺に逃げ込むも、追手の承芳方に
火を放たれ、裏山伝いに敗走して、瀬戸谷の普門庵にて自刃したとされる

此のあたりでは有力、著名な大寺院だった高山寺が、この時の火災で壊滅状態になってしまったと、伝えられている

放映時の案内画面には恵探の墓碑が写っていたが、位置の案内はなく場所がわからなかった、
また、あわせて側室の子として生まれ、早くに出家して花倉「遍照光寺」の住持となっていたとの事で、

ゆかりの.. 現「遍照寺」の画像も流れたので・・
てっきり「遍照光寺」(現遍照寺)が菩提寺だと思っていたが、訪れてみて此処ではない事が分って、引き続き探していた

01)その後の探索でようやく発見する事が出来た! 藤枝市瀬戸谷の「藤の瀬会館」の先約300m..

何のことはない
何時も山行きで通っていた瀬戸谷の県道32号腺脇の小山の上に祀られていた、丁寧にお参りして、心静かに対面を
果たす事が出来た! しかし20歳の若さで自刃とは・・「普門寺」を再興した住職により寛永8年(1631)に建てられた..

それにしてもなんとも小さな墓標.. およそ名のある方の墓碑とは思えない、質素と言うより貧祖な墓碑としか..

他の今川一族は元より、その家臣でさえ宝篋印塔や五輪搭を建てて供養されているのに、なんともお労しい事に思う!
墓碑の表面が朽ちて、読み取りはかなり困難、なにか方法があるのだろうとは思うのだが
すでに解読済かな?

左端に「*今遍照光*」!と読める文字がある? 時の「遍照光寺」.. 現在の「徧照寺」に通じる文言か?
それに、上の方に刻まれた「〇」も気にかかる? 今川家の家紋は「丸に二つ引両」だから何か関係があるのかな?

※ なお : 画像は全てクリッカブルです..マウスの左ボタンクリックで 拡大してご覧いただけます!

02)よほど風化が激しかったと見えて表面は樹脂セメント?で平に補修してある、もちろん文字は掘り込みに倣っている
が不明な部分は平に補修されて、、全く読めなくなってしまったのは残念、もう少し努力して復元して欲しかったと思うが・・

03)傍らにこんな表示がある、後の戦没者の公霊搭が同居している、今川良真菩提と記されている、玄広恵探の墓碑で
ある事は間違いないと思われるが、なんたる冷遇!・・ 室町時代の戦国の世では当然のことなのかも知れない・・ 


04)急いで逆順に紹介したので最初へ戻って、少し離れて回りをみまわすとこんな環境です、石碑は単独ではなく、
こんな風に、戦没者の公霊搭と同居した格好になっている、ここは良真が自刃した場所、、それに?時代の差がなんとも
大きくて・・なにかとても妙な感じがするが、


05)管理上やむ得ないと思うが、なぜに菩提寺の普門寺が引き取らないのか? 素人考えだがなんとも不思議な気もする..


06)もう少し離れると・・ こんな風な、小祠と云うかこんもりと樹木に囲まれた高台になっている、玄光恵探は敗走の後に
現在の瀬戸谷にあった「普門庵」で自刃したとされるが、実はこの小山がその場所とされている、しかし現 「普門寺」とは
かなり離れていてその昔ここが普門庵の境内だったとは考えに難く、、いささか不可解だが・・


07)実はここにたどり着く前に、玄光恵探が逃げ込んだとされる「高山寺」を探し当てて住職どのに良真の菩提寺の「普門寺」
とこの石碑の場所を教わった・・ もっとも事前調査で現地の地図も持っていたので案外すんなりとたどり着けました、

その「高山寺」城外脱出後に逃げ込んだのがこのお寺だそうです、しかし、追っ手が火を放ったため 更に敗走して、先の
瀬戸谷のあの地で自刃して果てた云う・・

この頃の高山寺(こうざんじ)は、七堂伽藍を完備し末流に普門庵(現臨済宗普門寺)を有し,境地も巨広で,後山には古墳等
多く持っている、大きなお寺であったが、この時の出火が元で焼失し、現在は何処にでもあるローカルなお寺!

実は、この後に登場する玄広恵探(良真)の菩提寺の「普門寺」は、当時この高山寺の配下の複数の寺のお寺の一つだった!


08)こちらが本堂、かっての面影はなく、古の栄枯盛衰など、みじんも感じられない、平成の現在はごく普通の地元の
寺さん? の感が強い・・


09)興味深い由緒縁起はこちら!(これが見たくて来た)花倉城を追われた玄広恵探が逃げ込んだいきさつが記述されている




10)それにしても、かって七堂伽藍を擁した大寺も、この事件で全てを焼失する破目になってしまったという・・ 後述するあの
「普門寺」も当時は「普門庵」としてこの寺の末寺の一つであったという、、
以後23年間も再建を待つ事に・・ しかし元の大寺への復活はなされなかった 時に戦国の世の倣い? 世が世とはいえ
なんとも因果なお話しではありませんか!

ここが良真の菩提寺「普門寺」です、県道32号腺に面したここが「入口になっていて、先の急な山腹に、しがみ付く様に
建てられている、、この県道はいつもの山行きで何度も通っていた道路なのだけれど・・
最近まで「普門寺」自体のいわれを知らなかった為に、何時も通り過ぎていた「今川良真菩提寺」って書いてあるじゃん!


11)ここが普門寺の門前、かなり急な登り石段が続いている、左手の狭い登りを車のままで上がったら、やっ!きつかった!


12)案外瀟洒なお寺さんである、当の今川良真(玄光恵探)の菩提寺になっているが、境内にはそれらしい表示も碑の類も何
もなかった・・ 住職どのにお話が聞ければ何か分るとおもったが、ちょうど法事の最中だったので遠慮し退散した。

後に分かった事だが、本堂には雪斎の木像や位牌、更には「當山開基遍照光寺殿玄広恵探大徳大居士」と彫られた
恵探の位牌も安置されていると言う、住職どのにお話が聞ければ拝観できたかも.. と残念至極(^^;

まさしくここ普門寺が探していた、今川良真(玄広恵探)の菩提寺であることを再確認、間違いない!

捜し歩いた..「玄広恵探」の墓碑?石碑にもめぐり合えて、歴史散策!第一波はどうやらひと段落した様に思うが、何か虚しい
大事な何か?忘れものがあるような..妙な気分だった!

筆者は玄広恵探(良真)派?ゆえ、梅岳承芳方(今川)一族の話は載せていないが、便宜上.. 義元の墓の所在など.. 少しだけ
情報を載せておきますね(^^♪ ただ、義元の墓碑は静岡市の臨済寺以外にもあちこちに得る様ですね..


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